憲法九条を世界遺産に (集英社新書)

憲法九条を世界遺産に (集英社新書)


『憲法九条を世界遺産に』は、思っていたより難しい内容だった。その理由の第一は、キーワードが「宮沢賢治」だったことだ。この本のもうひとりの著者(対談相手)中沢新一も、「憲法の問題を考えるとき、宮沢賢治は最大のキーパーソンです」と言っていて、宮沢賢治が苦手なわたしは焦った。と、いうことはまず、宮沢賢治を読み直さなくてはならないのかーと思いつつ、「セロ弾きのゴーシュ」と「注文の多い料理店」と猫の事務員の話だけは好きなんだけどなぁ…

かといってこの本に、宮沢賢治と憲法の関係について説明している個所が特別あるわけではないので、けっこう不親切で、読者を選ぶ本かもしれない。しかし、ふたりはそんなことは意に介していないだろう。中沢氏にとっては、TVの前線で舌戦を繰り広げる太田氏を、精神的思想的に後方支援できればそれでいいし、太田氏にとっては、九条の思想を自分の芸にどう取り込めるか、可能ならどう笑いにまでもっていけるか、というのが最大の関心事だ。だから、ふたりの共著であっても、とりたてて「共闘」関係というのではなく、九条を守る根拠を個人的に突き詰めていく、できるだけウソをつかず、奇麗事を言わず、仮想敵を作らず、誰も責めず、何にも甘えず、たぶん宮沢賢治がそうしたであろう風に、自分と「戦争の永久放棄」が、ギリギリ重なり合うまで、考えていく。もしもそこから笑いが生まれたなら、それが一番いいし、それがブラックになるか不条理になるか、わたしには想像もつかないけれど、とてつもない笑いが生まれる可能性が、あるかも、なのだ。

読み終わってしばらくして、この本の最後の方で太田氏が批判していた『きけわだつみのこえ』を古本屋でみつけたので、買って帰った。『きけわだつみのこえ』はなんとなく書名だけは聞いたことがあったが、わたしはまったくの初読みだった。
太田氏が批判する理由は以下のものだ。

たとえば、戦没学生の手記『きけ わだつみのこえ』を読んでいても、皮膚感覚で伝わってきません。あれは戦後すぐに出された本で、最後の解説のところに国粋主義的なものは全部省いたと書いてある。あの本に寄せられている手記を書いたのは、東大生とかのインテリで、なおかつ戦争中から戦争反対の考えをもっていたという人たちだから、それはもうわかったと。それよりも僕が知りたいのは、戦争を信じた人たちがどんな確信を持って信じたのかなんです。それが排除されていることがもどかしいというか、僕らの世代にとってみると、それこそが知るべきことなんじゃないかと思います。その部分がどの思想家の本を読んでいても、ストレートに伝えてもらえてない気がする。

太田氏の言う通り、この、東京帝国大学の学生(以外も少しいる)が戦没する直前まで書いていた日記や手紙をまとめた本、『きけわだつみのこえ』は、純粋に戦没学生の書いたものを無心に集めたものではない。編集顧問?の渡辺一夫によると、

かなり過激な日本精神主義的な、ある時は戦争謳歌にも近いような若干の短文までをも、全部採録するのが「公正」であると主張したのであったが、出版部の方々は、必ずしも僕の意見には賛同の意を表されなかった。現下の社会情勢その他に、少しでも悪い影響を与えるようなことがあってはならぬというのが、その理由であった。(中略)

更に、若い戦没学徒の何人かに、一時でも過激な日本主義的なことや戦争謳歌に近いことを書き綴らせるにいたった酷薄な条件とは、あの極めて愚劣な戦争と、あの極めて残忍闇黒な国家組織と軍隊組織とその主要構成員とであったことを思い、これらの痛ましい若干の記録は、追いつめられ、狂乱せしめられた若い魂の叫び声に外ならぬと考えた。そして、その影響を顧慮することも当然であるが、これらの極度に痛ましい記録を公表することは、我々としても耐えられないとも思い、出版部側の意見に賛成したのである。その上、今記したような痛ましい記録を、更に痛ましくしたような言辞を戦前戦中に弄して、若い学徒を煽てあげていた人々が、現に平気で平和を享受していることを思う時、純真なるがままに、扇動の犠牲になり、しかも今は、白骨となっている学徒諸氏の切ない痛ましすぎる声は、しばらく伏せた方がよいとも思ったしだいだ。

と激烈な言葉が続く。「痛ましい」の繰り返しや、「残忍闇黒な国家組織と軍隊組織とその主要構成員」等々、興奮した子供の呂律が回らなくなるみたいに、憎悪が沸騰しているのが分るだろう。ただ、今は沸騰した憎悪に付き合っているわけにはいかない。なぜなら、憎悪のあげく削除されてしまった「過激な日本主義的なことや戦争謳歌に近いこと」の文書こそ、今一番読みたかったものだからだ。その件に関しては、wikipediaにも色々書いてあって、「軍国主義的内容への共感や国家への絶対的な忠誠を誓うようになった背景を知る手がかりがわからなくなり」とか、「立花隆も『天皇と東大』(文藝春秋)でこれを左側からの「歴史の改竄」であると批判した。富岡幸一郎も『新大東亜戦争肯定論』にて「遺された言葉が、戦後の反戦平和運動のスローガンに利用された」と述べている」。さらに、そりゃまずいと思ったのは「遺書が遺族に返還されなかった(略)(これについては、改竄が暴露されるのを防ぐためであったとする説がある)。」というのだから、問題は多い。

しかし『きけ わだつみのこえ』は、現代でも読む価値は決してなくなっていないと思う。
そりゃ「日本的精神」とくれば天皇関係のはずなのに、戦没学生はほとんど天皇に触れない。そのため、感性が現代の日本人に近いのだ。やはり東大生ともなると、天皇を神とみなす非科学的な教義よりも、きちんと科学的で普遍的な考え方をしていたのだ、ということなのか、それともやはり該当部分は削除されてしまった、ということなのか、それとも、東大だろうが何だろうが、死を目前にしたような究極的な状況の中では、憲法も天皇もさほどの支配力をもたない、ということなのか。

どれだかは分らないが、わたしが東大出版部の人間だったら、あんまり天皇を神として崇拝しているものは、やはり排除してしまうだろうと思う。戦争賛美もしかり。理由は、愚か過ぎて恥かしいから。でも、それはやはり間違っている。ほんとうに、二度と戦争を起こしたくないなら、赤裸々にすべて後世にささげるべきだった。

この本は、一冊の本として読むより、わたしとしてはそれぞれ固有の個人として、読んでいきたいし、そうしている。これがブログだったら、と思う。そうしたら、何か変わっていたろうか。

また時間のある時に、この本の中の、特定の手記について触れたい。

第二集 きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記 (岩波文庫)

第二集 きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記 (岩波文庫)

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