パルタイ / 倉橋由美子

パルタイ (新潮文庫)

パルタイ (新潮文庫)

『パルタイ』収録作品

  • パルタイ 30p(17600)
  • 非人 34p(20000)
  • 貝のなか 34p(20000)
  • 蛇 78p(47000)
  • 密告 50p(29800)

数字はページ数と全角文字概数
■「蛇」「密告」
倉橋由美子は子どもの頃、家に数冊あった。ので読んだことがある。若い男が、主人公の乳房を持ち上げていた。主人公が目の前にひざまずいている若い男に、「そうしても良い」と許可を与えたからだ。自分がそんな風に誰かに許可を与えることがあるのだろうか? と想像した。「許可」というスイッチを手にもち、止めたり入れたりする。男女の性とはそういうものなんだろうか? いざというとき、自分がそのように振舞えるだろうか? 両親の書棚には男の作家の本も沢山並んでいたので、そちらも読むと、倉橋由美子のように性を描いている作家はそうはいなかった。登場する女は、男に許可を与えてはいなかった。というか、そんなスイッチを持っている風には見えなかった。

 

■「パルタイ」
家には「パルタイ」もあった。以前も書いたとおり、わたしの母は熱烈な共産党支持者なので、子どもの頃はビラ折りとビラ配りをしょっちゅうやらされていた。苦痛で仕方なかったが、それでも母の望むような世の中になってほしかったため、わたしも共産党支持者の子どもだった。なので、一読して共産党をけなしていると分る本書を読んだときは、激しく嫌悪し、かつ狼狽した。
あれから30年の時を経て今一度読むと、「パルタイ」はまさに青空にように冴え渡っていた。

≪革命≫はわたしの外にあるなにかではない。もしも≪革命≫がそういうものだとすれば、外にあるものの≪必然性≫がどうやってわたしの自由、わたしの選択にかかわってくるというのか。≪革命≫は必然的だからパルタイにはいるのではなく、わたしは≪革命≫を選びたいからはいるのだ。そしてわたしは自分自身の自由を拘束することによって、いっそう自由になることを選ぶのだ。わたしの参加が≪革命≫を必然的なものにする

「わたし」はそういって自身の経歴を党に提出することを拒むのだが、パルタイには通じなかった。個人の決意を握りつぶしてしまうのがパルタイだ。

 

■「貝のなか」
「貝のなか」は、千野氏の言うとおり、誇り高いお嬢さんが読むのにふさわしい短篇。
ここでも「かれ」は困ったことに共産党(作中では「革命党」)に入ってしまうという、「わたし」にとって当惑する展開なのだけど、当時は誰もかれも外部からの≪必然性≫で共産党に入っていたので、流行のようなものなのだ。そして「かれ」は「わたし」の対人関係について愛と信頼とオプティミズムで律するべきなどと、呆れた奇麗事を並べる。そしてすぐに「人民」とか「大衆」という言葉を常用するものの、「わたし」にとってそれらは「他人」に過ぎず、「わたし」は日々寮生活の中で殺意にさいなまれている。それでも「かれ」の魅力の前で「わたし」は「一瞬の想像のなかで、わたしはかれの肢体を彫刻し、勁い夏草の茂みをかすめる野鳥に変身してかれの表面を愛撫」せずにいられない。それは自分一人が独占し所有しあいされようとする欲望であるのに、「かれ」は貝のなかにノコノコやって来ては、「革命」から「国家消滅」までの道筋をスジコとタラコとイクラに説き、彼女らは手品でも見るように感心し、「かれ」はそのようにスジコとタラコとイクラに共有され、それで得意になっている。

そして小説はラストへ。このラストは、「パルタイ」以上にコミュニズムを批判し、未来を予告しているものかもしれない。

■昭和35年
どれも昭和35年に書かれた短篇で、わたしはまだ生まれていない。書かれたその当時と、わたしが最初に読んだ頃の、まだ世界が東西に分かれ共産主義が覇権を持っていた頃と、共産党が完全に後退した時代と、さらにまた、何か全体主義的な力が覆おうとしているかの現在とで、望遠鏡の焦点がグワングワンと切り替わるような、そんな読書だった。

「わたし」は、その時代にもあの時代にも、きたるこれからの時代にもいる。そして≪革命≫への希求は、死に絶えてはいない。今度、ほんとうに≪革命≫が起きるとしたら、それは、「わたし」が参加するからだ。

「わたし」の参加だけが、≪革命≫を実現する。

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