硫黄島からの手紙(映画) , 散るぞ悲しき(書籍)

映画『硫黄島からの手紙』のDVDパッケージ

☆1.父親たちの星条旗 映画 DVD
☆2.硫黄島からの手紙 映画 DVD
☆3.『硫黄島からの手紙』を観照して「自由主義史観研究会(歴史論争最前線)」による「映像は戦場を再現できたか?」(WEB)
☆4.『「硫黄島からの手紙」を観て』同上
☆5.硫黄島探訪 11月3日更新あり(WEB)
☆6.散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道 / 梯久美子著 2005年7月初版(書籍)
☆7.硫黄島今だ玉砕せず / 上坂冬子著 1995年7月に出版されたものを2006年12月改定(書籍)
☆8.「鎮魂 硫黄島」 硫黄島で散った勇士たちの霊に捧ぐ 1 から8。20年ほど前に制作されたドキュメンタリ(Youtube)
☆9.Letters From Iwo Jima (2006)Yahooアメリカのレビュウ欄
☆10.Letters From Iwo Jima (2006)yahooアメリカによる画像集
☆11.WarnerbrosのDVD紹介フォトギャラリー、ダウンロード。音楽鳴ります

◆◆part1◆◆

『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』の二作を遅ればせながらDVDで見た。
感想でも書こうと、関連することを調べていたら、どんどん沢山のことが出てきて、考えのまとまりがつかなくなった。なので、ごくごく簡単に書いてしまうことにする。
まず、わたしも見る直前まで知らなかった、けれど一番肝心なマメ知識を伝授する(知らない人向け)。

硫黄島の位置(c)wikipedia

wikipediaから拝借した図である(は当方が付けた)。硫黄島が、ちょうど東京とサイパンの中間にあるのが明瞭に分るだろう。
距離にすると東京と硫黄島の間は1250キロメートル(距離は資料により若干の違いあり)、硫黄島とサイパンは1400キロメートル。東京とサイパンは2650キロで、往復すれば5300キロメートル、ということになる。

太平洋戦争のさなか、アメリカはB29という爆撃機で東京をはじめ日本全土に爆弾を落していた。このB29が基地にしていたのがマリアナ諸島のおもにサイパン島で、B29は、日本に爆弾を落し終わってはサイパンに戻って燃料を補給し、メンテナンスを行い再び爆弾を積んで日本へと向かった。B29は当時として高性能で、積める爆弾の量は多く、飛行距離も驚異的に長かったが、それでもサイパンと日本は非常に離れているため、途中で燃料切れを起こす危険、あるいは燃料のために搭載する爆弾を減らさなければならないなど、不都合なことが多かった。それがもしも、サイパンと東京の中間にある硫黄島を占領できたら、自在にB29を飛ばせ効率的に日本を攻撃することができる。アメリカにとっていかに硫黄島が魅力的かということだ。
ということは、硫黄島を取られれば日本本土は、バンバン爆弾を落され、好き勝手に蹂躙されるということ。

『硫黄島からの手紙』の中で日本兵は、「天皇陛下万歳」と叫んだり、すぐに玉砕したがったりと、現代の日本人には理解し難い心理や行動を他の戦争映画と同様に見せるが、彼らが、あれだけの数のアメリカ艦隊に着岸され空から陸からの物量攻撃を浴びながらも投降せず戦い続けたのは、ムチャな特攻精神や押し付けの天皇崇拝(ばかり)ではなく、ちゃんとした理由があったのだ。
ということを感じながら、太平洋戦争の映画を観れたことは、本当に良かった。

ということでマメ知識コーナー終わり。
ところで「硫黄島プロジェクト」というのも知らなかったので調べた。
硫黄島の戦いは、アメリカにおいても、いくつかの伝説を生み出した。伝説の要因としては戦いの熾烈さがあり、その例としては数字が挙げられる。米軍側の死傷者28686名、日本軍側21152名。戦死者だけに限定すると、米軍側6821名、日本軍側20129名。日本側はほとんどが生きて帰らぬ人になったという一点をとっても凄惨な光景が浮かんでくる。が、アメリカの方も、物量、技術力ともに圧倒的に優位であったにも関わらず、被害甚大であり、それだけ日本軍が死闘の限りを尽くした、ということだろう。また、数字にあらわれない血肉の飛び交う凄まじい戦いであったことや、たかをくくっていた日本側の戦略が思いのほか高度で、最高司令官栗林中将に対して敬意を持ってみたりと、エピソードに事欠かない。のみならず、厭戦気分に包まれていた当時のアメリカ人を熱狂させたとある一枚の写真が撮影された戦いでもある。『父親たちの星条旗』は、その写真に映った6人の兵士の、生き残った3人のその後の人生をテーマにしている。

不思議なことに今日硫黄島では、毎年日米両国から硫黄島戦生き残りの元兵士や遺族が集まり、慰霊行事を行っているという。☆8のビデオ映像の最後あたりに、その最初の回がドキュメントされている。☆7の書籍は、硫黄島に残された兵士の遺骨の回収(今も残されたままの遺骨が1万柱以上ある)に執念を燃やし、ついで日米合同の慰霊行事にも尽力した、和智和尚という人について書かれたもの。戦時中敵同士だったものが合同で慰霊行事を行うのは、世界でも他に例のないことだという。
「硫黄島プロジェクト」は、アメリカの俳優、監督であるクリント・イーストウッドが、日米両国の視点から硫黄島の戦いを描いたもの、もしくはその計画のことで、当初日本側のは日本人の映画監督を探していたがみつからず、日本語が分らないのをものともせず、両方イーストウッドが撮ったという。日米両国、どちらにも肩入れせずに公平に描いたという点でも評価されているわけであるが、敵同士だったものが一緒に慰霊行事を行っている戦いであるから、その素地は充分にあった。



『父親たちの星条旗』の原題は「Flagas of Our Fathers」で、なんでフラッグが複数形なんだという話があり、わたしは日本サイドの『硫黄島からの手紙』について書き留めるだけで精一杯なのでその説明はやめる。けど少し説明すると、1945年2月19日の硫黄島上陸から5日経過した2月23日、硫黄島をてっきり占領したと思い込んだアメリカ海兵隊は、擂鉢山という、島で一番高い山に星条旗をたてた。そこへいたるまで、血みどろの死傷者を多数出していたから、大変な感激のもとに星条旗はたてられた。ところが、その旗を記念に持って帰ろうと考えたのがいて、そちらは下げて、代わりにダミーの旗を立てることになった。その時の写真を撮影したのが、海兵隊に付いて回っていた戦争カメラマンのジョー・ローゼンタールで、最初の旗より大きい旗だったことや、光線の加減、全体の構図のバランスなど、すべてにわたって最初の、つまり本物の写真よりも見事だったため、新聞社に送られたそれは、いっきにアメリカ人の心を捉えてしまった。これ、今の時代だったら「またCGか?」と疑うところであるが、そんな技術のない時代だから、これだけの瞬間を捉えた見事な写真は稀有なものであり、アメリカ人が熱狂したのも無理からぬとも言える。ここらへん、一枚の写真が生み出すイメージが肥大して真実を駆逐していく、広告効果の恐ろしさと、イメージ至上の世界を生き抜いてきたイーストウッドならではのテーマであろうと、あちこちで言われる所以である。一方最初の旗は、事実戦場で活躍した兵士が勢いよく立てたものだったが、ダミーの方は使い走り的な兵士が立てたものだった。写真家側で考えれば、二度目だったからこそリハーサル済みで良い写真が撮れたのだともいえる。しかし、写真に写ったメンバー(6人中3人は硫黄島で戦死したので3人)はその後、戦費用の国債を買わせる大々的なキャンペーンに駆り出されることになり、英雄扱いされていく。
実のところ、硫黄島の戦いの本番は旗を立てた後にあった。その内実を描くためにも日本サイドから撮った『硫黄島からの手紙』が機能しているのがスゴイが、栗林(渡辺謙)の戦略は緻密で用意周到だったから、旗を立てたあと30日以上戦いは続いた。だから、この写真もこの旗も、実際の意味はほとんどなくイメージだけだった。

『父親たちの星条旗』の後、次に『硫黄島からの手紙』をみた。
映画を観た後検索していたら、☆3と☆4をみつけた。
「西郷(二宮和也)の家族愛は共感を呼ぶが決して彼だけではない。」
西郷という人物は、埼玉県大宮でパン屋を営んでいたものの憲兵に最初はパンを、そのうち商売道具を持っていかれ、怒りを胸に秘めている男である。また、徴兵されるにあたり、妻のお腹の中にいる赤ん坊に生きて帰ってくることを約束した男でもある。妻の役は裕木奈江で、小さい顔と髪を結い上げたうなじのあたりが色っぽく、またガッツリとこの役を演じきる意欲を感じさせた。そのため、二宮が近寄った時はてっきり濡れ場が始まるのかと思ってハラハラしたが、お腹に赤ちゃんという展開だったのでなぜかホッとした。近寄って何をしたのかというと、妻の腹に顔を寄せ、まだ生まれていない赤ん坊、これから生まれる未来に生きる者へ決意を込めて約束をするのだ。「お父さんは、必ず、帰ってくる」。
一体に、どんな根拠があってそんな約束をするのだ。あてのないそんな約束を、どうしてできるのだ? いい加減なことを言うな、というちょっとした怒りを覚えたシーンでもあった。怒りと、そう言ってくれたことへのうれしさの、両方が混ざった。このシーンは絶対に美しくなくてはならないと思う。なぜなら、国家や歴史が暴力的な圧力を一個人に課す、その力に対峙していなくてはならないのだから。その点、両者は大げさに美麗なわけではないが、確実に静かに美しかった。

栗林中将(渡辺謙)は実在の人物であるが、西郷は映画ならではの架空の人物で、硫黄島に2万人以上いた無名の日本兵士たちと、現代に生きるワレワレをつなぐ掛け橋の役をしている。掛け橋であるから死んではならなくて、死んでしまっては映画の意味が違ってくる。本当に実在した兵士達も西郷と同じくらい家族や日本の生活を思い、生きて帰ることを願ってやまなかっただろう。あの時代おおっぴらにそう言うのは憚られたとはいえ、内心の内心は生きつづけたかったに違いない。あるいは、同じくおおっぴらには許されてはいないし、逆の心理を刷り込まれたとしても、西郷と同じように「必ず生きて帰る」と誰かに約束した者もいたかもしれない。
けれど、本物の兵士は、映画の登場人物ではないので、生きたい思いがどんなに強くても死んでいった。

と、こんな風に書くと「自由主義史観研究会(歴史論争最前線)」に寄稿した元陸軍士官学校の先生に文句を付けているようだが、先生は硫黄島を知らない現代人の参考に供するため書いているので、映画を否定しているわけではない。それどころか、みんな西郷のような思いだったのだと、言わずにいられないのだろう。もう一編の、元防衛大学校教授の寄稿も同様だ。こちらはさらに、硫黄島で戦うことがまず水の圧倒的な不足と、喉の渇きに打ち克つことであったことを、簡潔に教えている。また、映画に描かれた「壕」が広すぎることや、壕を掘る作業は南国の暑さと硫黄混じりの地熱の熱さでものの10分も続かず、服も着ていられなかったこと等、映画が伝え得ていない過酷さを教えている。しかしそうはいっても狭い壕のままでは映像になりづらいし、喉の渇きと戦いながら壕を堀り続ける作業ばかり描いてもいられなかったかもしれない。映画の主眼はタイトル通り、家族思いの細やかな手紙を書き送りつつ、かたや指揮官として優れた名将であった栗林の人間像と、ひたすら手紙を書きつづけるということ、ひたすら伝えつづけるということ、伝えるというか最早それ自体がひとつの救済であるような、そういう手紙を書きつづけること。映画に出て来た手紙はどれも今も残る実際の手紙であるけれど、忌わのきわになって頭の中で書いていた手紙は映画ならではのフィクションだろうし、栗林の最期を看取り埋葬した西郷が、状況の悲劇ぶりに迎合しないひょうひょうとしたそれまでの姿勢を捨てて、アメリカ兵相手に狂気を見せたのも、大きな見せ場だった。

わたしはここらへんのことを考えると涙が止まらなくなるのである。そのうちの、どこからどこまでが映画からの影響で、どこからどこまでが映画ではない事実からくる影響なのか、区別もつかないまま。
これは多分わたしにだけ起きる特殊な現象ではないと思う。硫黄島はそうさせる力を持っている。この2本の映画は、「これで硫黄島終わり」ではなくて、今の時代の人間が硫黄島からの手紙をタイトル通り受け取って、これからまた展開させていく合図なのだと思える。たとえば、☆8の「鎮魂 硫黄島」で自衛隊員の方がインタビューに答え、硫黄島で戦死した兵士を「先輩方の英霊」と語り、それは自衛隊ならではの礼節なのだと思うが、英霊と考えるだけではなくて、この島で戦死する以前に、苦しい毎日を生きた人たち、どう生きたのか、ということを考えていこうではないかと。あるいは、玉砕という言葉があって、玉砕と考えると思考停止してしまうわけで、そういう言葉を使わずに死に臨んだ気持ちや状況を捉えていこう、というか。
そのことは、硫黄島で亡くなった兵士たちが英霊ではない、と即刻意味するわけではない。

◆◆part2◆◆

『散るぞ悲しき』の書籍

『散るぞ悲しき』

「自由主義史観研究会」の「映像は戦場を再現できたか?」を読んだら、もっと硫黄島のことが知りたくなり読んだ本。
たぶん読まなかったら、自分の中で映画は映画として完結していた。
逆に言うと、映画を観たからこそ、戦争にぜんぜん詳しくないわたしにも、お二方の言わんとする硫黄島像が把握できたのだと思う。

この本は表紙の写真通り、栗林忠道陸軍中将についての本で、栗林を演じた渡辺謙が、「本当の硫黄島を教えてくれたこの本を、僕は撮影の間中、手放すことはなかった」と帯に書いた本でもある。
映画中、栗林の描写の中でとりわけ印象深いのは、硫黄島に赴任した当初に家族に宛てた手紙

家の整理は大概つけて来た事と思いますが、お勝手の下から吹き上げる風を防ぐ措置をしてきたかったのが残念です。太郎に言いつけて来たことは順々にやった事と思います。

とナレーションする、渡辺謙の柔らかい口調と、こんな場面にあらわれる「お勝手」という言葉の、唐突かつ状況異化的な響きだ。映画では全編を通じて、栗林が家族、特に娘のたか子(あだ名はたこちゃん)に宛てた手紙がナレーションされ、厳しく残酷な現実と、手紙に書き綴る内容とのギャップが、独特の効果を生み出していた。

それら手紙のあたたかさ、細やかさをより細かく伝える本書は、読めば栗林中将大好きッ子になること請け合いであるが、その一方、読み終わった後(というか読んでいる際中も)ペコンペコンに凹んだ中身からっぽの一升缶みたいになる。1ページ1ページすべて泣けすぎて自分の中身が空になったようになるからだ。
むろん、栗林は素晴らしい。
どう素晴らしいのか説明するのは簡単ではないが、例えば、硫黄島で日本軍が善戦できたのはひとえに、「水際作戦」を捨てて、島全体を一大地下陣地にした栗林の戦略と、それを実現させるべく壕を掘りつづけた兵士たちの艱難辛苦であり、それがまた実現したのは、ふつうなら最高指揮官は後方(この場合近くの島の父島)で指令を下すだけ(それも自分だけは割りと恵まれた食事をしながら)というパターンが多い中、一般兵士と同じ最悪の生存環境を共に生きた栗林の指揮だったからこそ、であり、そうでなかったら、兵士達の壕堀りは士気が上がらず、遅々として進まなかったろう。
名将、と言われる所以である。
しかし著者の梯氏は、それだけの指揮を行い得た理由を、単に軍人として優れていたという事ではなく、兵士一人一人の命を無駄にせず、最高に生かしきる考えがあったからだと説明する。説明というよりも、それを証明する資料を集めた本なのだ。
当時の日本が行う戦略は、「バンザイ攻撃」などのように、たいした考えもなく命を軽んじるものが多かった。「玉砕」という言葉で飾ればきれいではあるが、ようは無駄死である事が多い。栗林は無駄死を許さなかったからバンザイ攻撃も禁止、兵士に配った「戦闘心得」も、どう戦い、どう防御するかを徹底して具体化して文章化したもの。

それでもどうしても思うのは、どうせ負けるんだからそんなに頑張らなくてもよかったんじゃんということである。
なにせ日本の2万2千人に対して、上陸したアメリカ兵は6万人(そのうちの2万余人を死傷させたのはすごいが)、さらに艦で待機する後方支援部隊は10万人もいたのだ。勝てるわけがない。いや、それでも多勢に無勢で頑張ったと言っていえないこともないとしても、「大本営」は、最初から硫黄島を捨てていた。

大本営は、硫黄島も捨てていたし、栗林の進言にも耳を貸さなかった。
一体、硫黄島の日本兵にとって本当の敵とは、アメリカだったのか、大本営だったのかどっちなんだ。

渡辺謙は、撮影の間中この本を手放さなかったというが、渡辺謙の栗林はまるでイメージが違う。
2ちゃんねるあたりでも、硫黄島の渡辺謙は、中村獅童ほどではないにしてもケチョンケチョンにけなされているという。

しかしそれでいいのだ。渡辺謙はスターであり、どこからどう見ても魅力がある。
栗林の魅力は「映像」で伝えられるものではない。
映画は映像で伝えられるものを伝えればいいので、本当の栗林とか、本当の硫黄島の暮らしとか考えたら、たぶん映画作りのモチベーションが持続しない。えんえんたる壕堀り。そんな映像が示せるのは、無駄死の予感と戦争の無益さだけだろう。「戦争の無益さ」という言葉は実際、ヤフーイギリスの読者レビュー欄にあった。その人は「ブッシュに見せたい」とも言っていた。しかし、「戦争の無益さ」といってしまっては悲しすぎるのだ。彼ら兵士がそんなものを体現するために硫黄島に生き、死んだとは思いたくない。

思いたくないがやっぱそうなのかなぁと嫌な感覚に終始包まれていたのは、原爆を搭載した「エノラゲイ」が、広島へ向かう途中硫黄島の上空を数回旋回した、というエピソードが語られるあたりで、この部分は、本のかなり最初の方、嫌な感覚が重低音のように終始響く仕組みになるあたりに、差し込まれていた。著者は因果関係について何も語らないし、実際関係などなく、つまり硫黄島の仕返しとかそういう意味は原爆にはないだろう。だろうが、原爆を投下する罪悪感が硫黄島によってかなり軽減されたであろうと想像する。栗林は、それより先に死んでいるので、知らずに死んでよかった。

核は、核自体の欲望によって、栗林らが頑張っても頑張らなくても堕ちた。

大本営って何なんだろう。
アメリカ人のための「硫黄島からの手紙」(H19.2.24)
などを見ると、この人は一体何が言いたいのだろうと思う。(途中までしか見ていないのだが) 日本と栗林と大本営をいっしょくたにしてアメリカに対抗させても、何も見えてこないのでは? アメリカのためって言っても、日本人で撮れる監督がいなかったんだから仕方がないっていう部分もあるわけだし。

◆冒頭に予告した通り、硫黄島からの手紙について、ごく簡単にまとめた。
☆8.の『硫黄島今だ玉砕せず』を読むと、今度は栗林の所属する陸軍ではなく海軍にいた和智という人を主役にすえていて、また興味深い。ちなみに、陸軍と海軍は仲が悪く、硫黄島においても、本来協力し合わねばならないところ、最高指揮官が陸軍の栗林だったのが気に入らないせいか、海軍の抵抗があって壕を完成させることができなかった。栗林が最後に大本営(に直接宛てると届かないので間接的に)へあてた通信にも、陸海軍の関係を是正する必要について進言してある。それがほぼ生涯最後に送った通信であることを思うと、一番これが悲しい通信かもしれない。

ただこの本は、あくまでも終始一貫「玉砕」にこだわっているため大味で、『散るぞ悲しき』のような繊細さはない。

著者の世代が、硫黄島兵士とさほど違わないことを考えると、無理もない大味なのかもしれないが。
しかし、硫黄島の底知れない深さと広がりの一端を見せてもらった。

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