先日「どりーむず」に行った。「どりーむず」は、去年の七月に書いた本屋の中は妖気たちこめる戦場の舞台となった本屋だ。あの時は「日本」と「スピリチュアル」が連呼されている状況にマジで焦って、ちょっとちょっとみなさん、こんな妖しい日本でよいのですかー遠慮してないでどんどん違和感を表明しないと、幻魔大戦で貪り喰われてお仕舞いですよー!!という恐慌にかられ、それ以降は「へんなものが多数派になるのは勘弁して」という思いから、JapanとかWARとかabeとかカテゴリを増やして書きまくってみたりした。

さて「どりーむず」であるが、以前ほど「日本ースピリチュアル」臭はしなくなっていた。それとも知らぬ間にわたしに耐性が出来て、気づかなくなったのだろうか? という疑念ももちつつ、まずエンタメコーナーに行って、音楽雑誌を一通り眺め、ついで文藝春秋と同じ版型の「政治思想コーナー」と思われるコーナーに行き、目立っていた「正論」を手にした。すると、「新種の天皇制廃止論?」という興味深いエッセイ風があったので立ち読みした。雅子妃のことが書いてあった。わたしは、雅子妃のファンではないが雅子妃が鬱々と過ごしているのは気の毒だなと感じている、善良な日本国民である。「正論」によると、雅子妃は公務はさほどイヤではないという。しかし、宮中祭祀?が苦手で重荷なので、めっきり鬱になっているという。
宮中祭祀が何かというと、「お祈りの儀式」らしく、ハーバード大学で政治や外交を学んだ身にとっては、あまりに合理性に欠け(という表現だったかは忘れたが、そういう意味)、馬鹿ばかしくなって(同)、かったるくて(同)、やってらんねーよ(同)なんだそうだ。記事は、そんな雅子妃を批判などはせず、「つらくもなるだろう、無理もない。」と理解をみせていた。女性週刊誌などは雅子妃についてとやかく言うが、さすが「正論」は宮中の儀式にも造詣が深いため真剣に雅子妃のことを考えている、ということだろう。わたしはこのエッセイ風を読んで、今まで雅子サマをちょっと心配していたのだが、理解者がいると知って安心したのだった。
がしかし、さらによく読むと、最後の方、「これは、雅子妃への昨今の同情論ともあいまった、新手の天皇制廃止論かもしれない。」とあり「警戒したい」で終っていた。

つまりこの記事は、雅子妃の重荷を軽減する方向のご意見掲載ではなく、雅子妃の心中などどうでもよく、あるのかないのか分らない「天皇廃止論」という外敵に向けてハリセンボンのごとく針を逆立て、キエーーとしょぼい牙をむき出しにした自己中記事なのだ。

わたしは、「正論」を元の場所に戻しながら、絶望感と言えるような感覚に襲われた。あまりにも身勝手だと思った。ひとりの若い女性が(わたしよりちょっと若い)、理不尽な、逆らいようもない、因習に音をあげ無言の悲鳴を上げているのに、助けようという発想がゼロなのだから。それをできる一番近い位置にありそうな「言論」からしてそうなのだから。その「言論」が助けないなら、他に誰が雅子妃に肩入れしてくれるだろうか?

わたしは顔を上げて周囲を見渡して、他の人たちが手に取っているのがファッション誌やバイク誌であること、「正論」が大いに売れ残っていること、「正論」以外の雑誌には多少は正論が書いてありそうなこと、などを確認して、よろよろ立ち直った。無論雅子妃には悪いが、こんな捻れた「言論」はとても言論のうちに入らない。それと同時にピンと来たのは、どりーむずって「正論」なんかを目立つところに平積みになんかして、そういう変な本屋だったのだろうか? ということだ。見ると、他のマトモそうな雑誌は平積みにはならず、隠すように並べているではないか。気のせいなのかもしれないが、何となく、イヤーな感じがした。それで「どりーむず」で本を買う気がしなくなったので、とっとと出た。

余談だが、他に本屋としては、駅向こうに猫山書店がある。猫山書店での同様の売り場では特に偏りは感じられなかった。
それにしても「正論」、ハツラツと微笑む若い頃の原田美枝子が表紙なのだが、若い頃の原田美枝子は、学生運動の男子学生にシンパシーを抱き「素敵」と評したりする、リベラル女子。赤旗日曜版だったかで読んだのだから確かだ。そんな彼女がなぜ表紙なのか? ぜひともやめてほしい。

 

猫山書店にて

↑これは猫山書店です。「どりーむず」じゃないです