わたしの知ってる或る命について

今月の初め、わたしにとっては義妹にあたる女性がガンで亡くなった。
義妹にあたる女性、詳しくは夫の弟の妻だ。
年も3歳ほど若い。

夫の弟の妻との親しさ度が一般的にどの程度かなんて考えてもしょうがないが、限りなく他人のようであり、案外親しいようであり、よくわからない距離感。

わたしは、何度か彼女たち夫婦にわたしの名で年賀状を出した。けれど、返事はなかった。返事くらい寄越しなよね~とも思ったが、通常、年賀状は夫婦連名で夫婦連名宛てに出すものだから、対応に困ってスルーしたのだろう。

もともと、わたしにはあまり常識がない。というか、何が常識かは知ってはいても無意味だなと思うと、実行しないことが多い。

夫の弟の妻、名前を仮にSさんとしよう。Sさんはそんな人ではない。6年前に亡くなった姑とは新婚の頃から同居していて仲も良かった。あまり考えたくないので考えてなかったが、わたしは長男の嫁という立場だ。けれど、それらしいことはしてこなかった。彼女が、事実上、嫁らしいことを一番していた。

わたしは、嫁だの姑だのといった橋田寿賀子ドラマみたいな関係をハナから莫迦にしていた。姑は満洲育ちで幼い姉弟を引き揚げ時に無事に連れ帰ったのは自分であると、自慢ばかりしていた。そのせいで「自分のいうとおりにしていれば間違いはないのだから、いうことをききなさい」と常に支配的だった。それが嫌でケンカになることもあった。
言い訳をするわけじゃないが、わたし以上に喧嘩していたのは、実の息子であるところの夫なので、それに比べたら相当仲良くやっていた。

いづれにしても、夫も、わたしも、姑のいうことを聞けない人間で、かなり敬遠していた。あるいは同居するか近所に住むということもできなかった。やっていたのはSさん夫婦ということになる。

それでも姑が生きている間は、姑の強い希望もあって年に数回は遊びに行っていたが、亡くなってからは疎遠になっていた。(夫は四人兄弟で、弟たちとの連絡は密である)

Sさんは嫁として面倒なことを皆やってくれて、それでいて、朗らかさを失ったことがない人だった。底抜けに朗らかであるから、遊びに行っても、わたしたちは気兼ねをせずにくつろげた。通常、嫌味のひとつふたつ言われても仕方がないのに、彼女にそんな気配はみじんもない。いつ遊びに行っても、信じられないくらい楽しく過ごせた。なにせ、姑の葬式の後も、三周忌のあとも、Sさんの家では、集まった皆がついつい笑い転げてしまうほどにリラックスしていた。

Sさんのガンは、皮膚がんの一種で脇腹にできていた。姑が亡くなったあと、しばらくして発生していたようだ。震災の前ころだ。彼女は、何度か家族に病院に行くよう進言されていたのに、「もう行ったから」と言いつつ、放置していたようだ。Sさんは、あの朗らかさの影でこっそりとガン細胞を飼っていたことになる。

Sさんには娘があり、とても聡明でかわいい女子に育っていた。Sさんの家に行くと、皆の愛情を独占しているのが見て取れた。

Sさんは朗らかすぎて、すっかり皆がそれに甘えていた。わたしとて、もう少し彼女を気遣ってもよかったはずだ。姑は怒らせると面倒なタイプだから、ときどき遊びに行っていた。が、Sさんはそういうタイプではなかった。

怒ると怖いからなどではなく、たとえ攻撃的な要素の何もない相手でも、否、そうならなおさら気遣うことは必要なのだ。

自分の「我」が通せているのは(自分ではどんなに常識に縛られない自由な人間と思おうとも)、ある程度犠牲になっている人がいるからだ。

それでも、なぜもっと自分を愛し大事にしなかったのかと、責める気持ちがわかないでもない。

亡くなったあと彼女の家で、彼女のむくろと対面した。生前と同じ、朗らかな顔をしていた。印象が一度も悪くなったことのない彼女らしく、最期の最期まで暗さのない穏やかさだった。それに、まだまだ通用するアイドルみたいな可愛い顔をしていたことも、彼女のために付け足したい。

そのうち葬儀屋の人が来て、告別式や葬儀の段取りについて話し、その後、彼女の枕元に「仏様の弟子になるから」と笠を置いた。
その次に、仏様のところへ行くからと、藁で編んだ草履をはかせた。
この時が一番悲しかった。
違う世界に行ってしまう、旅立ってしまう、ということをものすごく感じさせた。

それに、彼女は靴が大好きで、最初のころ姑に「玄関が靴だらけ」と文句を言われていたのを思い出したからだ。

おしゃれなパンプスやミュールの好きだった彼女が、藁の草履をはいていること。
わたしたちの住むこの場所とは違う、仏様のいる場所へ行ってしまうこと。

この時はほんとうに泣けた。

知らず知らずにみなを甘えさせてくれたSさんのこと、忘れないでいたい。


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