小中高、民主主義教育でするべきは立候補の練習じゃないかっ?
約一ヶ月ぶりの更新・・・・・
部屋が一つ空いたのはいいけど10年間ろくに掃除をしてなかったため物があふれ収拾がつかなくなって片付けに追われていた。
しかし当方、そんな埃まみれの中でも撫呂臥ーらしいことを考え、いいこと思いついたので発表する。
【衆院選挙候補者を公募します👥⭐️】
衆院選挙に向けて候補者を募集します。立憲民主党の基本政策に賛同し、実現に向けて共に活動できるみなさんの応募を、心からお待ちしています!応募期間は、3月1日から3月31日までの1か月間です。▶︎https://t.co/QSC81fj0oW #立憲公募2019 pic.twitter.com/k93W5Ptyah— 立憲民主党(りっけん) (@CDP2017) March 1, 2019
↑↑これは、今年3月に立憲民主党がツイートした「女性候補者募集」のお知らせだ。
わたしはこれを見て「自分だったらどんな政策を作って世間に訴えかけるだろう?」と考えた。今まで随分と政府や役所のやっていることについて批判的に書いて来たけれど、良くするにはどうしたらいいのか? という考えを政策におとしこみ、皆に訴えかける、というのは大変そうだ。まず、政策作成途中で反対する意見や層が浮かんできて頭痛がした。言いたいことを言いまくるのは大好きだが、いちいちと反対されたら不愉快である。が、立候補となるとそんなことは言ってられない。
つまり、順番としてはこうだ。
- 世の中のこういうところは変えた方がいい、変えなくてはいけない、という発見。あるいは、こうなったらもっとみんなが幸せになる、という考えや意見
- それを具体的に政策にまとめる
- わかりやすい主張の形にする
- それを声に出す、実際に演説する
- 賛同者や仲間をみつける、増やす
思ったのは、ここらへんまでのプロセスは、小中高の授業で模擬的に行って25才になったらいつでも立候補できる態勢にしておくのが、大人が果たすべき子どもたちへの責任ではないだろうか。大人になって突然「候補者」になれるかってたら、ムチャぶりの域。
それとも知らないだけで実は行なっているのだろうか? とも思ったので調べてみた。参考文献(2018年1月初版)
https://honto.jp/netstore/pd-book_28840642.html
(投票年齢の引き下げ)その結果、政治教育が再び注目を集めるようになったのです。今回の引き下げによって、高校三年生の一部が投票年齢に含まれるようになりました。このことは、かつての文部省と日教組の対立、学生運動の「政治の季節」が過ぎ去ったのち慎重に隔離されていたはずだった学校と政治の距離が再び接近することを意味します。
略
「日本では主権者教育はまだ始まっていない」と言ったほうがよいとさえ考えています。というのも、現状、テキストを配っただけで正式な科目(教科)はつくられていないからです。
第3章『教育と政治』のp.156〜158のごく一部を引用してみた。本書によって、投票する立場であるところの主権者としての教育も手付かずなのがわかった。略の部分にも大事なことが書いてあるので、そこは本書をあたっていただきたい。
つまるところ、主権者教育を含む政治教育を含む公民の授業が実に頼りないことになっている。理由の第一は教師が公正中立を保つのが難しいテーマだからかと、思われる。
ここでも思ったんだけど、有権者教育より立候補教育の方が比較的やりやすいのじゃないかなあ。投票する相手を選ぶ、という行為はどうしても好き嫌いがベースになりがち。感情のレベルだ。なので感情に振り回されないで判断する知性みたいのを教えることになるとしても・・・・
日本では25才以上なら誰でも立候補できるはずだ。ところが、そういう教育はなく、もっぱら選んで投票する立場でしか考えてこなかった。そんなだから、世襲議員ばかりがのさばることになるのではないだろうか?! 世襲議員のほとんどは、世の中をこうしたらみながしあわせになれる、などということは考えていない。実際安倍晋三氏の伝記を読んだら、祖父を誇りに思うあまりある時「政治家になる」と決意したくだりがあったが国民のことを何か考えて決意したわけではなかった。ちなみに安倍晋三氏の父も東大卒の政治家だったのだが、父は義父(岸信介)に気をつかいまくる気の毒な立場なのと、東大卒の肩書きはこの場合不利にはたらいたようだ。そんなで父のことは尊敬していないが、「おじいちゃんみたいな政治家になる!(゚▽゚)」と決めてしまった安倍晋三君30歳くらいの秋なのである。
こんなことがまかり通っていていいのだろうか?
昨日ラジオを聞いていたらドワンゴの社長の人が出てきてこんなことを力説していた。
「日本は先進国の中でこの20年間経済成長をしていない唯一の国なんです!!
日本じゃ教育にITを取り入れるを怖れ、役所が取り入れるの怖れ、会社が取り入れるの怖れと、なんでも怖れて拒否してきた。だからこんなに遅れを取ってしまった! 怖れないことが大事なんです!! 怖れちゃいけないんです!!!!」
声のでかい人だなあと思いつつも、なぜ日本人は怖れてしまうのか? どうしてこんなにも慎重にも慎重で石橋を叩いても渡らないのか?
理由は単純だと思う。なんでも受け身だから。そして他人が信用できないから。
強引に言うと立候補教育をしないから。
企業したり経営者になるのは誰でもできることじゃない。アーティストなど表現系の仕事もそうだし、学者もそうだし、一定の能力を必要とすることはみんなそう。けど、立候補することは本来限りなく万人にできること。投票権とならんで権利として保証されたものなのだから。
その権利を生かす教育をなぜしないのか? (供託金が高すぎる件はのちほど)
しない弊害は政治分野にとどまらない。科学者が一人いたとして、その人の基礎的な意識に立候補的なものが皆無だったら、こっちが不安になる。「自分の興味本位での研究、もしくは金儲け一辺倒の科学ではなく、ちゃんと人々のために考えてますか?」とか。これは経営者しかり公務員しかり。
人間基礎ができていてこそ、受け身一辺倒ではなく、攻めに転じることができるのである。
いいこと思いついたので取り急ぎ発表した。